湖北省
hu bei sheng
名称:オウ亭古戦場

・所在地:
湖北省宜昌市郊外

解説:ここオウ亭は過去数十回以上の戦が行われた地であり、その中で最も有名なのが蜀漢の命運をかけた夷陵の戦いである。関羽の仇打ちに燃える劉備軍80万の大軍が陸遜の火計に遭い敗戦した。

・コメント:蜀将フトウの奮戦に感動する。劉備が馬鞍山で呉軍に包囲された際、劉備を救出するために呉軍の中に飛び込み突破口を開こうとしたが無残にも戦死。その彼が馬に跨っている塑像が入口左手にある。また、当時劉備、関興、張苞が陣を敷いていたといわれる場所もある。

・アクセス方法:市内より出ている市バス101路に乗り、虎牙灘で下車。

・訪問日:2009年1月

名称:張飛太鼓台

・所在地:湖北省宜昌市西陵山 三遊洞風景区内

解説:張飛が兵士(水軍)の訓練をするためにここに台を築き、太鼓を叩いて鼓舞したとされる場所。

・コメント:張飛が前方を流れる長江(西凌峡)を見据えており、この景色が最高である。塑像は荒削りだが迫力満点。

・アクセス方法:三遊洞風景区内。市バス10路で同風景区まで行けるが私はタクシーを利用。帰りは10路のバスに乗車して市内まで戻ったが物凄い数の人たちが乗車してきて、息苦しい思いをする羽目に。私が乗ったそのバスはどうやら最終バスだったらしい。

・訪問日:2009年1月

名称:劉封城遺跡

・所在地:湖北省宜昌市西陵山 三遊洞風景区内

解説:建安19年(西暦214年)、劉備の養子劉封と孟達が同地に城を築いたとされる。しかし、建安24年(西暦219年)に孟達が魏に走ったため、後世の人々は劉封城と名付けた。

・コメント:現在は石碑と城壁の一部が残っている。

・アクセス方法:同風景区内。

・訪問日:2009年1月

名称:長坂坡公園

・所在地:湖北省当陽

・解説:建安13年(208年)、北方を統一した曹操は劉備を討伐するために襄樊を奪回後、自ら精鋭を率いて劉備軍を当陽まで追いやる。乱戦の中、劉備の子阿斗を救出したのが趙雲である。坂坡の戦いは趙雲が天下に威名をとどろかした戦といってよかろう。

・コメント:地元の子供達の爆竹攻撃を食らいながらの訪問。
公園内には長坂における一連の故事を題にとった塑像が並んでいるが、塑像の出来はイマイチである。また、趙雲が阿斗を救出し、劉備に手渡すシーンも再現されていたがその阿斗の顔面…評判通りおっかない表情をしていた。

・アクセス方法:市内ロータリー近く(超雲騎馬像の北側)

・訪問日:2009年1月


坂坡公園の正門】

【阿斗を抱いて奮戦する趙雲】
名称:趙雲騎馬像

・所在地:湖北省当陽

・解説:趙雲は当陽の出身者ではないが、彼の勇気が現在も当陽市民から深く尊敬されている証がこの趙雲騎馬像であろう。

・コメント:市中心部のロータリーのど真ん中にあり、一際目を引く。高さ15mはあろう高座台の上に趙雲騎馬像が雄々しくそびえている。また、夜はライトアップされているため、夜に観賞するのもよし。


・アクセス方法:市内ロータリー。

・訪問日:2009年1月
名称:太子橋

・所在地:
湖北省当陽

解説:ビ夫人が阿斗(劉禅)を抱いて、身を伏せていたといわれている場所。

・コメント:現在ではちょっとしたアーチ型の橋が残っており、大人一人が子を抱いて潜むにはどうかなぁと思うほど小さな橋。当時はもっと大きかったのかも。まぁ、それにしても太子橋から娘娘井までそれほど離れていないがあの戦乱の中、子を抱いてよく走ったなと感服するばかり。

・アクセス方法:玉陽路沿いにある太子
ホテルを探す。太子橋はこのホテルのすぐ横

・訪問日:2009年1月

名称:娘娘井

・所在地:湖北省当陽


解説:ビ夫人が身を投げたといわれる井戸。

・コメント:村の中にあり、道が入り組んでいるので探すのに本当に苦労した。多少大きめな敷地内に娘娘井と彫られた石碑と井戸がぽつんとあり、その故事を想像するのはちょっと難しいと思う。

・アクセス方法:太子橋を越えてさらに進む。雄風村の中にあるが道が入りくんでいるため、住民に聞くのが良い。私は雄風村の入口付近でバイタクを利用した。

・訪問日:2009年1月
名称:関陵

・所在地:湖北省当陽県古ショウ郷

解説:中国三大関帝廟の一つ。関羽の胴体が葬られた地。

・コメント:普段は多数の人が訪れるとのことだが、訪問当日は私一人という状況で思う存分観賞することが出来た。また、2001年には関公文化祭が開催され、関羽を信仰する人々が多数この地を訪れたらしい。

・アクセス方法:市バス4路に乗り、関陵下車。市内より西へ5`ほど行った先。

・訪問日:2009年1月

名称玉泉寺

・所在地:湖北省当陽郊外

解説:関公信仰発祥の地。

・コメント:
ここ玉泉寺は中国最古の仏教寺院である。本堂には勿論立派な関公像があり、正門横の道を進むと珍泉池と関公磨刀石、三義廟がある。

・アクセス方法:市バス2路に乗り、玉泉口で下車。下車後、玉泉寺までは一本道で6`ほど離れているため、三輪タク使用。

・訪問日:2009年1月
名称張翼徳横矛処

・所在地:湖北省当陽

解説坂坡の戦いのおり、張飛がわずか20騎ほどで曹操軍を長坂橋で迎え撃ち、大喝をして追撃を防いだ。石碑付近にこの長坂橋があったとされる。

・コメント:現在は車(特に大型トラックなど)の往来が激しい交差点内にあり、砂ほこりと騒音のため落ち着いて観賞することが出来ず。それよりも石碑周辺に築かれていた思われる煉瓦が粉々に破壊されていたことが気になる。


・アクセス方法:市バス1路に乗り、当陽火車駅で下車。下車後、火車駅の手前にある道を東へ進む。数`ほどの距離。

・訪問日:2009年1月
名称ビ夫人像

・所在地:湖北省当陽liang河鎮

解説:ビ竺の妹といわれるビ夫人の石像。

・コメント:石像の出来はなかなかなもの。また、夫人が右手に何かを持っていた。何を持っていたのかが無性に気になる。当日はハードスケジュールを立てており、朝7時から捜索開始。久しぶりにお天道様がまだ出ない時間帯から行動する。


・アクセス方法:当陽市内の長距離バス停より河溶鎮行きのバスに乗り、liang河鎮で途中下車。liang河鎮河溶鎮間の公路沿いにあるため、すぐ発見出来る。

・訪問日:2009年1月
名称周倉墓

・所在地:湖北省当陽県郊外東南

・解説:架空の人物とされる周倉の墓。

・コメント:バイタクのおっちゃんと同行で訪問。入口の門が閉まっていたが隣にある管理所に行き、開けてもらった。塚の後方には青龍円月刀?を持った周倉像はなんとなく可愛らしい。また、その塑像よりももっと後ろに廟があり、その中には黄金の鎧に身をまとった立派な周倉像が置かれている。
1998年市民の募金のもと、補修工事が行われたらしい。60万人民元を用いて。

・アクセス方法:ビ夫人像より徒歩可能な距離にある。   下車後、河溶鎮方面(東)に行く。公路沿いなのですぐ発見出来る。

・訪問日:2009年1月


【周倉墓】

【周倉像】

【周倉黄金像】
名称麦城遺跡(発見出来ず)

・所在地:湖北省当陽県郊外東南

・解説:建安24年(219年)、荊州を失った関羽は少数の部下を引き連れ、麦城に立て籠もり劉備の援軍を待つことに。しかし、敵の策略にはまり麦城付近で生捕られる。

・コメント:
地元バイタクのおっちゃんと周倉墓とセットで案内してもらった。゛麦城遺跡なら任せとけ゛みたいな感じで爽快にバイクを飛ばすおっちゃん。その背中を見て安心する俺…惜敗です。
本当に悔しいので麦城町の風景と標識の写真を載せます。

・アクセス方法:未到達です。

・訪問日:2009年1月


【麦城町の風景】

【麦城の標識】
名称三顧の礼像

・所在地:
湖北省襄樊市環城東

解説:劉備が古隆中にて晴耕雨読の日々を過ごしている孔明を訪れる際に通ったとされる橋。

・コメント:訪問時は雪が降っており、シチュエーション的には最高であった。また劉備が孔明に向ってお辞儀をしている姿を見ている張飛の表情も良かった。

しかし、ここにも人民達の仕業があり…お辞儀をする劉備の背中に落書きが(携帯番号付き)。

・アクセス方法:市バス1路に乗り、東門口で下車。環城東上。

・訪問日:2009年1月

名称:仲宜楼王サン像)

・所在地:襄樊市襄城区

・解説:竹林の七賢の一人。曹操に仕官し、この襄陽の地で長らく暮らしていたと言われる。この仲宜楼は王サン(字は仲宜)を記念して建てられた。

・コメント:雪の降る中訪れた。しかし、王サン像発見よりもここで知り合った人のほうが印象に残っている。彼女は市内にある中学校の体育教師をしており、親切にもいろいろ案内してもらったうえ、晩御飯までご馳走になった。旅先であり、その時はだいぶ警戒していたが、何もなく帰ることが出来た。今思うととても良い人であった。

・アクセス方法:襄樊城区の東南角。東門口より徒歩可能

・訪問日:2009年1月

名称:古隆中

・所在地:
湖北省襄樊市西郊外

解説:諸葛亮孔明が十年近く隠居生活を送っていた地。

・コメント:敷地内はとても広い。また、丘陵なので起伏が激しく、一日をさいて観光した。三顧堂、武侯祠、隆中書院など見所が多数あり。諸葛草蘆内は訪問時修復中であったため、所々入れない場所もあった。また、山頂にある「騰龍閣」までの道のりがとてつもなく大変だった。積雪のため、山頂へとつづく階段がつるつると滑り、何回も転倒しそうになった。

・アクセス方法:市バス1路に乗り、隆中下車。下車後入口まで徒歩可能。私はバイタク利用。

・訪問日:2009年1月


【古隆中牌楼】

【年少時代の孔明像】

【草庵】
名称馬躍壇渓遺跡

・所在地:襄樊市襄城区環山路

・解説:劉表配下の蔡帽に暗殺されそうになった劉備が愛馬(的盧)で檀渓を飛び越えたとされる地。

・コメント:当地で知り合った人民曰く、今は檀渓の後はほとんど残っていないが、当時の檀渓の幅は100mほどあったらしい。的盧は乗る人に災いをもたらすとされる凶馬であるが、見事に劉備を救う働きをする。

・アクセス方法:古隆中から戻る最中に立ち寄る。地図に載っているためアクセスは簡単だと思う。

・訪問日:2009年1月

名称:襄樊孔明像

・所在地:
湖北省襄樊市

・コメント:諸葛亮広場にあるこの像。もの凄い大きいし、さらに黄金色に輝いている。これほどの規模の像は初めて見た。制作費用がどのくらいかかったのかは知らないが少しやり過ぎでは!しかし、三国志ファンとして一言『感動しました』。

・アクセス方法:市バス532路に乗り、諸葛亮広場下車。

・訪問日:2009年1月

名称:黄牛廟記

・所在地:
湖北省西陵峡口

・コメント:三峡ツアー中に黄陵廟を訪問した際に、その廟の中に孔明が植樹したとされるセンネンソウと石碑《黄牛廟記》を発見する。黄陵廟(別名黄牛廟)は春秋時代、人々が聖なる牛(禹を助けた神牛)を記念して建てられた廟であり、三国時代、諸葛亮孔明が入蜀する際に黄陵廟に参詣し、破損した部分を修築する。その時に碑文《黄牛廟記》を記したとされる。

・アクセス方法:三峡ツアー中に訪問する。

・訪問日:2006年7月

【孔明が植樹したとされるセンネンソウ】

【黄陵廟碑文】

名称:荊州古城

・所在地:
湖北省荊州市

・解説:劉備ら入蜀後、荊州一帯は関羽に任された。
また、荊州は三国時代には80回以上もの戦いがあったという州である。

・コメント:ここ荊州城は長年、関羽が統治していただけあり関羽ゆかりの名所が多い。しかし、真夏の炎天下の中を5kgほどあるリュックサックを背負いながらの訪問であったため、思うように行動出来なかった。また、荊州古城は周りを堀で囲まれており城壁と緑、水が非常にマッチしている。

・訪問日:2006年7月
名称:荊州関帝廟

・所在地:湖北省荊州市

・解説:関羽の邸宅跡。明の洪武29年(1396年)の創建で現存するものは1987年の再建である。

・コメント:中には勿論関帝廟があり正殿には金色に輝く関羽像。この荊州関帝廟内にある関羽像が最も細面らしい。

・アクセス方法:荊州城内

・訪問日:2006年7月
名称:三国公園

・所在地:湖北省荊州市

・解説:単なる公園である。

・コメント:入場料無しの公園であり、中には諸葛橋亭、義兄弟像がある。なかなかリラックス出来る公園であり、時間に余裕がある際に訪問してみても良いと思う。

・アクセス方法:荊州城内西側

・訪問日:2006年7月
名称:得勝橋

・所在地:湖北省荊州市

・解説:関羽が曹操軍と戦い凱旋して荊州城に戻る際、この橋を渡り城内に入った。それによりこの橋は勝ちを得るということから得勝橋となったらしい。

・コメント:城を死守する曹仁との合戦、曹軍精鋭部隊と呼ばれる七軍を水攻めして撃退するなど、正に百戦練磨の関羽軍であった。

・アクセス方法:荊州城北門を出てすぐのところにある。

・訪問日:2006年8月
名称:劉備郊天檀

・所在地:
武漢市洪山区東湖東路

・解説:劉備が天を祭った際に築いたとされる郊天台。

・コメント:東湖風景区の西南に磨山があり、その山頂にこの郊天壇がある。とにかくこの東湖風景区は大きく、入場時に購入した案内地図上に劉備郊天檀を発見し、ひたすら歩き続けた。

・アクセス方法:市バス402路に乗車して東湖磨山で途中下車する。東湖風景区内にある。

・訪問日:2006年8月
名称:古卓刀泉

・所在地:武漢市洪山区卓刀泉路

・解説:関羽がここ伏虎山麓一帯に駐屯していた際(時まさに夏の酷暑に当たる)、水不足を解消するために青龍刀を立てると地下水が湧き出て泉となったという。

・コメント:その名も天下第一の泉と称されている。中には関聖殿があり、神格化された関羽像がある。ここは当時宿泊していたホテルのすぐ近くにあり、偶然にも発見することが出来た。

・アクセス方法:武昌汽車駅より市バス66路に乗車して虎泉で下車する。卓刀泉路の東側。

・訪問日:2006年8月
名称黄鶴楼

・所在地:
武昌区蛇山西山被特1号

・解説:黄武2年(223年)、軍事目的のために孫権により創建され、夏口城の物見櫓の役割を果たしたとされる。また、赤壁の戦い後、劉備と諸葛亮を恐れた周喩がここ黄鶴楼に劉備を招待して宴席を設け、折を見て捕える策を立てたが失敗に終わる。(平話)

・コメント:李白の詩などで有名な黄鶴楼であるが三国志と関連する地でもある。
また、黄鶴楼敷地内には費緯亭と言うものがあるが付近には説明は全くなく、かなり怪しい。

・アクセス方法:市内地図上にあり。

・訪問日:2006年8月

名称:古鄂州城遺跡

・所在地:武昌区蛇山西山被特1号

・解説:劉備が皇帝を称した221年、孫権は公安より鄂(現在の武漢)に遷都し、名を武昌と改めた。また、鄂州城は鄂城と呼ばれ、孫権がこの地を支配していた際にも何度か増築、修築がされたらしい。

・コメント:黄鶴楼
を訪問中、偶然にも発見。武漢市文物保護単位の石碑の裏側にはここに夏口城を建てたと記載されている。また、現存する古鄂州城壁は300mもあるらしい。

・アクセス方法:黄鶴楼内

・訪問日:2006年8月

【現存する城壁300mくらい】
名称:甘寧公園&甘寧寺

・所在地:湖北省陽新県富池鎮

・解説:孫権は甘寧の功績を称え、西陵太守に任じて陽新を領させた。つまり、甘寧が晩年太守を務めたのがこの地である。

・コメント:
武漢市から何回も乗り継ぎをしてようやく辿り着いた。苦労した分到着時には達成感を感じることが出来た。

・アクセス方法:まず武漢→黄石→陽新へバス。陽新からバスを乗り換えて富池へ。到着後は三輪タクシーを利用した。

・訪問日:2008年6月

【甘寧公園の正門)】

【甘寧寺】

【タイムスケジュール】
名称:甘寧提督像

・所在地:湖北省陽新県富池鎮

・コメント:
甘寧黄金像…髭を生やしている甘寧像はかなり渋い。
甘寧を愛する地元人民(募金)により、この黄金像が建てられた。製作費用はなんと3万元である。日本円に換算すると凡そ45万円です。

・アクセス方法:甘寧公園内。

・訪問日:2008年6月

名称:甘寧墓

・所在地:湖北省陽新県富池鎮

・解説:演義では蜀呉死闘の夷陵の戦いにおいて蜀軍の沙摩カが放った矢を受け、逃走中に力尽きるとされているが正史では病死とされる。

・コメント:甘寧墓はここ陽新以外に重慶市の万州にも存在している。首塚や衣冠塚などがあるので墓が何個あろうが特に気にならない。
しかし、墓碑上に落書きがされていたのがとても残念である。

・アクセス方法:甘寧公園内。

・訪問日:2008年6月
名称:呉王廟

・所在地:湖北省陽新県富池鎮

・解説:甘寧と甘寧婦人が祀られている。

・コメント:特に印象がない遺跡でした。

・アクセス方法:富池鎮内で三輪タクシー利用。

・訪問日:2008年6月
名称:西塞山

・所在地:湖北省黄石市東郊外

・解説:孫策は父孫堅の仇敵の討伐と西方への勢力拡大のため黄祖を攻め、西塞山で激戦の後、勝利した。279年冬には晋将王睿がこの地を攻撃して呉は降伏。三国時代は終焉を迎えた。

・コメント:初めは山頂まですぐに到達出来るだろうとそんな安易な気持ちで山に登ったが、そんなに甘くはなかった。しかし、山頂から眺める長江の景色は最高であった。

・アクセス方法:市内武漢路の長距離バスターミナルからバスが出ている。市内からタクシーに乗り15分くらいの場所。

・訪問日:2008年6月
名称:赤壁古戦場

・所在地:湖北省蒲圻県赤壁古戦場

・解説:曹操軍vs劉備/孫権軍。歴史に残る大戦。

・コメント:三国志で一番知名度が高い戦いと言えば、やはり赤壁の戦いである。この戦いにおいて、真の主役は周喩と魯粛であろう。
岸壁に描かれている赤壁の二文字。驚くほど小さく、伝説のよると戦勝を記念して周喩自らが書いたとされる。また、その上には白い記号のようなものがあるが、これは唐代の道士が記したものであり、赤壁で無念のうちに死んだ曹操軍の亡霊が度々災厄をなすので、彼がその調伏のために記したとされている。

・アクセス方法:
2006年夏…武漢から赤壁へ汽車でアタックしたが、超満員により赤壁で途中下車出来ず。そのまま岳陽まで行ってしまう。
2008年6月…今回も汽車でアタックしたが快速に乗ったため、人民の妨害なくスムーズに行けた。

・訪問日:2008年6月

【赤壁古戦場の正門】

【岸壁の赤壁文字】
名称:南屏山拝風台

・所在地:湖北省蒲圻県赤壁古戦場

・解説:諸葛亮が東南の風を呼ぶために祈りを捧げた地であるという。

・コメント:宋代にはここに周喩廟があったらしいが、災害で壊れて明代に拝風台が代わって創建されたらしい。
自然災害のため仕方ないとはいえ、周喩廟を是非見たかった。

・アクセス方法:赤壁古戦場内

・訪問日:2008年6月

名称:ホウ統庵

・所在地:湖北省蒲圻県赤壁古戦場

・解説:ホウ統が魏からの密偵者の蒋幹とここで会い、連環の計へと繋がったとされる場所。

・コメント:ホウ統庵の手前には立派な銀杏の木がある。これはホウ統自ら植えた木であるという。ホウ統は蜀侵略戦のさなか無念の最期を遂げるが、戦士したホウ統の魂は金色の鳳凰となり、かつて自らが植樹したこの銀杏の木へ舞い戻ってきたという伝説が残っている。

・アクセス方法:赤壁古戦場内。

・訪問日:2008年6月

【ホウ統庵&銀杏の木】

【ホウ統井】
名称:赤壁古戦場記念館

・所在地:湖北省蒲圻県赤壁古戦場

・コメント:ドーム状の建物の中には赤壁の大戦で活躍した各将の陶器人形がずらりと並んでいる。人形の出来具合は上出来である。

・アクセス方法:赤壁古戦場内

・訪問日:2008年6月

【蔡帽像】

【丁奉像】
名称:赤壁周喩像

・所在地:湖北省蒲圻県赤壁古戦場

・解説:赤壁の戦いの主役である周喩。岸壁の文字と並び、赤壁のシンボルとなっている。

・コメント:熱い眼差しで長江を見据えている。塑像の顔をまあまあの造りであるが、下半身に向かって徐々に雑になっている。最後までちゃんと造れよと言いたくなる。

・アクセス方法:赤壁古戦場内。

・訪問日:2008年4月
名称:陸遜営寨

・所在地:湖北省赤壁市黄龍古鎮虎山林区

・解説:東呉大都督の陸遜が嘗てこの地に駐屯し、屯田したとされる場所。

・コメント:まず入り口には立派な陸孫像が凛凛しく立っており、その像より何百段ともあろう石段が中腹の拝将台まで続いている。山頂には烽火台、観軍台、夷陵長廊があり、一人で山道を歩き探しているうちに怖くなり、我が相棒゛そんしあさん゛が待つ所まで急いで撤収した。

・アクセス方法:赤壁市よりタクシーを利用した。交通量がかなり少ないため、市内への戻りは苦労しそう。

・訪問日:2008年4月
名称:陸遜像

・所在地:湖北省赤壁市黄龍古鎮虎山林区


・コメント:入口正面には陸遜像、また何百段ともある石段を歯をくいしばって上ると拝将台がある。久しぶりに運動をする私にはこの石段はとてもしんどかった。

・アクセス方法:陸遜営寨内。

・訪問日:2008年4月

陸遜像】

【拝将台】
名称:亀山公園

・所在地:湖北省武漢亀山公園内

・解説:魯粛の子が父を記念して魯粛墓を建てた場所。

・コメント:10数体の武将塑像がこの亀山公園内に存在する。私は朝食べた武漢名物の熱干面によりお腹を下し、トイレを探しながらの訪問となり辛い思いをした。

・アクセス方法:武漢市内の地図上にあり、アクセスは簡単。

・訪問日:2008年4月
名称:亀山魯粛墓

・所在地:湖北省武漢亀山公園内


・解説:魯粛の衣冠塚。

・コメント:これまた魯粛の墓である。私が訪問した魯粛の墓は3ヵ所目となる。江蘇省鎮江市、湖南省岳陽市、そしてここ亀山である。

・アクセス方法:亀山公園内

・訪問日:2008年4月
名称:赤壁大戦全景画館

・所在地:湖北省武漢亀山公園内


・コメント:360度の超巨大スクリーンにより、赤壁の戦いが表現されているらしいが。訪問当時、残念ながら既に閉館されており中に進入することが出来なかった。

・アクセス方法:亀山公園内

・訪問日:2008年4月

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